泡沫
これは困ったことになったと自覚したのは魔法の森に踏み込んでから半刻ほど経ってからだった。
前も後ろも右も左も鬱蒼とした木々。
空を見上げれば茂った葉にさえぎられて太陽の位置も定かではない。
「これは…迷ったみたいだぜ…」
森に踏み込んだのは年相応の好奇心に突き動かされたというのもあるし、
あの森には魔女が棲んでいるから入ってはいけないという親の忠告に対する反発もあった。
というか魔女がいるから入るななんて言われたら逆に入ってみたくなるのが人情というものである。
押すなと言われると逆に押したくなるのと同じ原理だなとひとりごちた。
しかし迷ってしまうとは想定外である。
さてどうしたものか。途方に暮れているうちにあたりはどんどん薄暗くなっていく。
人の声がしたのはそれからしばらくしてのことだった。
「あなたどうしたの」
顔をあげると木々の間から一人の少女が草を踏みわけてやって来た。
青色のワンピースに白のケープをまとった少女である。
顔は整っているが白い肌と相まって妙に作り物めいている。
自分の顔を人形のように澄んだ瞳で見つめると少女は二度瞬きをした。
その瞬きでようやくこの少女が生きているのだと実感する。
「こんなところをうろうろしていたら妖怪に喰われるわよ」
「出口が分かればうろうろするのを止めるんだがなぁ」
「…迷ったの?」
表情は変わらないが口調は明らかに呆れたと語っている。
なので迷ってないぜちょっと道を見失っただけだぜと軽口を返してやった。
すると少女は一度こちらを振り返ってからゆっくり歩き出した。
「案内してくれるのか?」
少女は答えない。
まぁ肯定はしていないが否定もしていないのだから案内してくれるのだろうとそれに続いた。
「あんた魔女なのか?」
少女は真直ぐ前を向いたまま答えない。
構わず質問を続ける。
「なぁわたしのばあちゃんは魔法使いで昔ここに住んでたんだ。知ってるか?」
少女はちらりと視線を寄越したが結局何も言わない。
「小さい頃に何回か会ったことがあるんだけど明るくて優しい人だった。
友達は多かったみたいなんだが人間より妖怪のほうが多かったみたいなんだぜ。面白いよな。」
そう。森に分け入った一番の理由はそれなのだった。
祖母は確かに少し変わり者だったがとても優しくいつも楽しい話をしてくれた。
鬼たちの何夜も続く宴会、河童のつくる見たこともない機械、妖怪の山の神遊び…
祖母が亡くなった時は人目も憚らず泣いたものだった。
一体祖母はどんな人だったんだろうか。
何故あんな話をたくさん知っていたのだろう。
両親に聞いても妖怪や魔法に興味を持っても何も良いことはないと言われるだけだった。
だからここに来れば何かわかるんじゃないかと思ったのだ。
「そうそう、わたしのばあちゃんの名前は…あ!」
突然木々が途切れ、視界が開けた。
様々な色の屋根。夕日に赤く染まる田んぼ。高台の神社。夕餉の香り。
見慣れた人間の里だった。
「ありがとう!なぁあんた―」
振りかえったときもうそこは誰もいなかった。
森の木々の葉がさわさわと夕暮れの風に揺れるばかりである。
空を駆ける人形遣いはある少女のことを思い出す。
秋の夕暮れ。収穫を待つばかりの金色の穂に風がさざ波をたてる。
ひとりの少女がいる。稲穂と同じ色の眩しいばかりの髪を風にそよがせて。
こちらに気づき少女は手を振ってくる。
無邪気な笑顔。自分を呼ぶ声。
『アリス!』
別れが寂しかったとは、辛かったとは決して思わない。
わたしたちは種族が違う。同じ時間を生きられない。
長い生のほんのひとときを一緒に過ごした―それだけだ。
子どもを生んだのね。
あなたも恋をしたのかしら。
家族に囲まれてどんな暮らしをしていたの。
…ねぇあなたは幸福だった?
―魔理沙。
小さく呟いた言の葉は誰に届くこともなく藍色の空に溶けて、消えた。
END
灰猫から一周年記念&別館開設記念に貰ったもの。